
伝 来
正宗・村正・藤四郎吉光を始め100振り以上の名刀を所持していたと伝わっています。
高野山での豊臣秀次を描いた『月百姿』(月岡芳年 画。出典はwiki)
秀次事件の通説は、秀吉への謀反を疑われた秀次が高野山へ追放され、その後切腹させられたというものである。
ところが、秀次の謀反を証明する一次史料は、殺生関と汚名を着せられたことと同様に皆無である。。一次史料に記されているのはいずれも、「秀次は自発的に高野山に向かった。」という内容である。
文禄四年(1595年)
7月8日 秀次が高野山へ出奔
7月12日 「秀次高野住山令」が出される
7月13日 「秀次切腹命令」が出される
7月15日 秀次切腹
(太閤様軍記之内)には、秀次切腹の場面、そして、その介錯をおこなった篠辺淡路守について以下のように記されている。
切腹の一番手は 小姓の山本主殿で秀次は粟田口国吉の短刀を与えて、介錯は秀次が「南都住金房兵衛尉政次」の刀を用いて自ら行った。
一番 山本主殿 粟田口国吉 短刀
二番 山田三十郎 厚藤四郎 短刀
三番 不破万作 鎬藤四郎 短刀
四番 龍青西当 村雲 剣
五番 豊臣秀次 正宗 短刀
六番 篠辺淡路守 国次 短刀
四人の介錯を行った後、秀次は正宗の短刀で切腹し、篠辺淡路守が名刀「波游兼光」で介錯したと記録に残る。
五番、関白秀次卿、御わきさし(脇指)は(正宗)にて、御刀(波游兼光)、(篠辺淡路守)御介錯つかまつり候て、そのゝち、ぬし(主)も御脇差し国次をくたされ、はらをつかまつり候
篠辺淡路守は、天下一の茶人・千利休の切腹を見届けた人物ともされ、月日がめぐって、関白秀次の介錯役を勤めた直後に殉死するという、壮絶な人生であった。
【主な参考文献】
矢部健太郎『関白秀次の切腹』(KADOKAWA、中経出版 2016年)
『太閤秀吉と豊臣一族 天下人と謎に包まれた一族の真相』(新人物往来社、2008年)
小和田哲男『豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇』(PHP研究所 2002年)
『ねねと木下家文書』(山陽新聞社 1982年)
松田毅一・川崎桃太 翻訳『完訳フロイス日本史』(中央公論新社、2000年)
全日本剣道連盟HP引用
一番目に切腹した山本主殿(やまもと とのも)は大雲寺の山内に居を構えた豪族の出身で、秀次の小姓として活躍した人物である。
山本家は現代まで続く旧家で、旧大雲寺境内にて総合病院を経営する由緒ある家柄である。
主殿の遺体は高野山「高台院」に葬られ、今も線香が絶えないほど篤く弔われているが、生前に主君秀次から賜った「貞宗」は、遺族から観音院(大雲寺の本坊)に奉納されて、永く宝刀として祀られてきた短刀である。当初は「関白貞宗」と号がついていたが、秀次謀反という烙印が押された後は石座(いわくら)貞宗と号されるようになった。